「幸せになる勇気」という本を最近読み終えました。「嫌われる勇気」という本の続編であり、「アドラー心理学」を中心にした「哲学」の本です。誰かを変えるのではなく、自分が変わるために必要なことが書かれています。「アドラー心理学」が何なのかは、本の中で丁寧に語られています。今回はそれを説明するのではなく、実際私が何に心動かされたのかを書いていきます。教育において、叱ることも、褒めることも誤りであるアドラー心理学は次の人生の目標を提示しています。行動面…自立すること、社会と調和して暮らせること心理面…私には能力があるという意識と、人々は私の仲間であるという意識教育、指導、援助(以下、教育とします)においても、これらの実現が重要になります。そして、教育者として必要な入り口は、まず子どもたちがその人らしく成長・発展していけるよう気づかうこと、言い換えれば「尊敬」すること、としています。その過程を考えていくと、実は「叱る」「褒める」といった「賞罰」が適切ではないとわかります。叱ることがなぜいけないのか?「怒る」と「叱る」は、子どもたちと言葉でコミュニケーションすることを煩わしく感じて、手っ取り早く屈服させようとしている点で実は一致しています。子どもたちが何か問題行動を起こした時、教育者が一緒に考えなければならないのは、「これからどうするか」だけです。そしてそれについて語り合い、一緒に合意点にたどり着くことが大切です。叱責はその過程で全く必要がありません。子どもも、叱責が「未熟なコミュニケーション」であることを理解しています。そんな相手を尊敬しようと思うはずもありません。叱ることは、子どもたちとの本当の信頼関係を壊す行為なのです。褒めることがなぜいけないのか?「教育者が本当に子どもたちの立場になって、その努力の成果を一緒に喜ぶ」ということならば、問題にはならないでしょう。ですがそもそも「褒める」とは、実は「能力のある人が、能力のない人に評価を下す」ことです。「褒められること」は、教室では子どもたちにとっての褒賞になります。教室のみんながそれを目的にすると、「競争」が生まれます。その先にあるのは「競争原理」の支配であり、嫉妬や劣等感に苦しむ「敗者」の存在です。また、目的が「誰かに勝つこと」にすり替わっていることも問題です。仲間の足を引っ張ったり、他者の手柄を横取りしたり、教育者に媚を売る姿勢の原因となります。子どもたちは、それぞれに目標を掲げながら並走する「仲間」であるべきです。そこに競争は必要ありません。「褒める」ことは、子どもたちの協力関係を壊す行為なのです。自立しなければ、人を「尊敬」することができない教室などの「ある共同体」の中で、人は「所属感」を求めます。「孤立」は、社会的・生物的に死につながるという現実が根底にあるからです。「所属感」を満たすために、人は自分を他者と比べがちです。例えば、褒められた時に幸せを実感するかもしれません。ですがそれは、「わたし」の価値を他者に決めてもらっている状態です。「わたし」を認めず、自分と他者との違いばかりを際立たせようとするのは、他者を欺き、自分に嘘をつく生き方です。そうしないためには、「その他大勢」としての自分を受け入れる事…「普通である事の勇気」を持つ必要があります。すなわち、「わたし」の価値を、自ら決定する事です。これが、本当の自立です。自立できていない状態では、「褒められる」などの「依存」を求めてしまいます。他者と共感し尊敬しあうには、ほど遠い状態だと言えます。自分の課題と、他人の課題を分けて考える対人関係の悩みの多くは、「課題の分離」ができていないために生まれます。何か悩みがあったとして、それが誰の課題なのかを見極める方法。それは、「その選択によってもたらされる結末を、最終的に引き受けるのは誰なのか」を考えることです。少なくとも自分が引き受けることは、他者の視線や評価を気にせず、他者からの承認も求めず、ただ自分の信じる最良の選択をするべきです。私(あなた)は、誰かの期待を満たすために生きているのではないし、他者も同様です。故に、自分の課題に他者を介入させてはならないし、他者の課題に介入してもいけないのです。例えば、上司に嫌われている時、好かれようと努力するのが一般的です。しかし、上司が私にどんな評価を下すのかは上司の課題であって、私が介入することはできません。…シンプルで、当たり前とも思える話です。でも、自分自身も衝突しがちな問題でした。自分ではどうしようもないことを考えている時、人はどうしようもなく悩みます。でもそもそも、他人を変えようなんておこがましいことで悩む必要がないのです。なぜ上司に好かれたいのか、自分の願望の本質こそ追求して問うべきです。この「課題の分離」を意識するだけで、かなり楽になった実感があります。※「愛」においてはこの限りではなく、本の後半で別の話があります。「他者の関心ごと」に関心を寄せる他者の関心ごとについて、「楽しんであげる」「遊んであげる」といった押し付けではなく、自分自身も一緒になってただ楽しみ、遊ぶこと。この姿勢は、同僚、恋愛、あるいは国際関係などあらゆる対人関係で求められます。自分の目で見て、自分の耳で聞いて、自分の心で感じるばかりでは、誰かを尊敬することにつながりません。他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じること。いわば、他者の立場になりきって感じることが尊敬の一歩なのです。…正直、自分もまだまだ苦手としているところです。デザインにおいても欠かせない姿勢だと思います。対人関係で重要なのは納得しましたし、それを自分が苦手だと自覚できたのがよかったです。誰かとコミュニケーションを取る時、そして誰かを想ってデザインする時、本当に自分が関心を寄せられているのか常に問うようにしていきたいです。「共感」と「同調」は違う相手の意見に、「私も同じ気持ちだ」と同意すること。それは単なる同調です。共感とは、「他者の関心ごとに関心を寄せる」技術・態度なのです。誰かの関心ごとに、うわべだけ「私もわかる〜」といったところで、そこには共感がありません。相手を尊敬できておらず、それでは本当の信頼関係が築けません。「信用」と「信頼」は違う「信用」とは、相手を条件付きで信じること。一方「信頼」は、一切の条件をつけずに信じることです。一切の条件をつけずに信じる、というのは、「その人を信じる自分」を信じるという事です。つまり、実は自分を信頼していないと(=自立していない)とできない行為です。信じる根拠がなくても、見返りの事も考えずに、ただ信じる。例えば、利害や条件が絡む仕事の関係は「信用」で、それらが一切ない交友の関係は「信頼」です。教育において、もし仕事だと割り切って子どもたちと接していれば、互いに「信用」はしても「信頼」関係は築けません。故に、尊敬すること、されることもありません。教育に関わらずどんな相手であれ、尊敬を寄せて信頼することはできます。これは自分の課題であり、自身の決心次第です。まず目の前の人に信頼を寄せる。目の前の人と、仲間になる。そうした日々の小さな信頼の積み重ねが、いつか国家間の争いさえ無くしていくという考え方が、アドラー心理学です。「宗教」と「哲学」は違うどちらも、人間の心に踏み込んでいくところは共通です。わかりやすい違いは「物語の有無」。宗教は神を主人公として、世界を説明します。神は絶対的な存在(真理)です。神の名の下に、「すべて」の事象について説明されます。これは言い換えると、「神」が絶対で正しいと信じて疑わない状態です。「自分はすべてを知っている」と自称して学びや思考を止めてしまった状態も同じです。一方哲学には、物語も、答えもありません。いつまでも、自分のこと、他人のこと、世界のことを考え、抽象的な言葉だけで説明しようとします。学問というよりも、永遠に自問自答を続ける、いわば「生きる態度」です。…今回、この話が始めの方に出てきたのが面白いと感じました。「嫌われる勇気」「幸せの勇気」という本のタイトルを見て、自分自身も宗教っぽいなと感じていたからです。先の話を踏まえれば、真理でもなんでもなく、読んだ人が幸せを感じるための「勇気」や道筋を示しているにすぎません。それを実践することを強制されませんし、むしろ疑い続けるべきとされています。自己中心的な人の本質自己中心的な人は、「自分のことが好き」だから、自分ばかり見ているのではありません。実相は全く逆で、ありのままの自分を受け入れることができず、絶え間なき不安にさらされているからこそ、自分にしか関心がないのです。-176まとめ以上、「幸せになる勇気」を読んで学んだこと、感じたことを一部だけ書き連ねました。比較的、対人関係のテーマに重きが置かれていた印象です。他にもおもしろいところがたくさんあります。ちなみに「嫌われる勇気」では、自分自身との向き合い方 - 自分の人生を決定するのは、「いま、ここ」を生きるあなたしかいない - について、より丁寧に語られています。どちらもオススメです。幸せになる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教えII嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え